
第0話
プロローグ
——この世界には“怪異”と呼ばれる事象が存在する。
それは人の姿であったり、土地であったり、あるいは姿を持たないこともある。
人に無害であるとは言い難いが、すべての怪異が脅威とも言えない。
“其れら”は、いつも人の世に寄り添って続いてきた。
事件、事故、災害、夢、伝承。
“其れら”はあらゆる形をしている。あらゆる場所であらゆる時間に出会う。
全ての人間が認識できるわけではないが、私たちよりもずっと古くから確かに其処にいるのだ。
“其れら”は我々とは別の時空を悠々と生きていながら、時に人々の心に深く干渉してくることもある。
誰しもが胸の内に秘めたる感情に、手を伸ばし触れてくるのだ。
無意識の領域でさえ、“其れら”にはハッキリと見えている——。
1
「先生へ 目が覚めましたか?事務所に立ち寄ったんですが姿が見えなかったので置手紙をしておきます。僕はこれから依頼を受けに行ってきます。詳しい内容は後で話しますね。またオカルトのことばっかり考えて寝坊しているんでしょう。しっかりご飯を食べてください。それでは、また
サイ」
デスクにあったメモ用紙を使って書かれた文字はまだ若いけれども美しい字だった。彼の律儀な性格と豊潤な教養が現れている。
「またサイくんに面倒かけちゃったみたいだなぁ。いんやぁ、ハハハ」
ジュラクはまばらに髭の生えた顎を掻きながら、ふあ、と大きく欠伸をした。
だらしのない恰好で歩くのは聚楽御影(ジュラクミカゲ)という男で、この探偵事務所の主だ。(案件数は少なく目ぼしいものは無いものの、若くして事務所を構えているだけ一人前と言えよう。)
ベッドサイドにおいてあるノートパソコンは、昨晩読みふけっていたオカルトサイトが開かれたままだ。いつの間に寝落ちてしまったのか、ワイシャツには皺が芸術的に広がっていた。
「もう昼か……」
簡易なキッチンには助手のサイが挽いたコーヒー豆が用意されている。
ジュラクは香りを嗅いだ後にフィルターに豆を落としてお湯を注いだ。
「サイくんが来たのは、朝七時十五分ってとこかな」
豆の香りやふくらみ方、今日の湿度とメモの湿り具合を確かめながらジュラクは呟いた。
「じゃあもうすぐ依頼から帰ってくるかねぇ」
熱いコーヒーが舌を痺れさせながら腹に落ちていく感覚を味わう。挽いてからしばらくたった豆は少し鮮度が落ち、仄かな酸味と渋みが咥内に残った。
いつも通りのコーヒーを手にしてソファへ移動し、テレビを点ける。いつもと変わらないアナウンサーが至極どうでもいいニュースを読み上げていた。
どこの動物園で育成の難しいトラの子が生まれたとか、全国の学校では文化祭の時期だとか。平和で、なんの深みのない話が耳を通り過ぎる。
まだ寝ぼけている頭がコーヒーの味とニュースを緩和して、栄養になることなく時間と共に消費されていった。
暫く経ってジュラクは時計を一瞥した後に事務所入り口のドアを見た。それから数分と待たずドアノブが回され、扉が開く。
助手の御法川サイ(みのりかわ-さい)だ。
すぐにソファのジュラクと目が合い、瞳孔が少し開く。
「先生、起きたんですか」
「やぁ、おはようサイくん。コーヒー頂いてるよ」
「おそようございます。もうお昼ですよ」
サイはため息交じりにショルダーバッグを机に置くと、ジュラクの前に座った。
「いんやぁ、昨日は遅くまで調べものをしてたんだよ」
「そんなこと言って。またオカルトサイトでも漁ってたんでしょう?」
じっとり、と睨むサイから目を逸らし、ジュラクは新聞を開いた。
見出しは野球の結果ばかりで、ニュースと同様に大きな事件はないようだ。
「つまらないなぁ」
「何がです?」
そう言った途端、サイのお腹がぐるると唸った。ジュラクが新聞から顔を上げると、サイが少し恥ずかしそうに腹を抑えて「あはは」と乾いた笑い声をこぼしている。
「そういえば、お昼ですねぇ」
ジュラクは開いたばかりの新聞を閉じ、立ち上がった。
「お腹が空いたのかい」
「えぇ、まぁ。とーっても有難いことに、先生から頂いたご依頼で沢山動いたので」
「また猫探し?」
サイの服についた猫の毛をつまみ、ジュラクはフッと息を吹きかける。軽い毛が宙を踊りながら落ちていく様をサイは不服そうに見た。
「今回は二匹もです。しかも一匹は物凄くやんちゃな子だったんですよ」
「そりゃ大変だったね。——しっかし、君もよく見つけられるよねぇ。普通は迷い猫と野良猫の違いなんて分からないよ」
「大体は首輪がついてますし、人馴れしてる子が多いですから。それに生まれた時から飼い猫だと、脱走しても遠くには行かないんですよ」
「正しくは“行けない”だろ。大体の飼い猫は外の世界に恐怖を覚えるものだ」
「そうですね」
サイがゴミ取りシートで服を整えている間に、ジュラクは財布をポケットに突っ込んで新聞を脇に持った。
「お昼、行こうか」
「いいですね! カフェ・クレーネですか?」
「うん。近いし」
「少し肌寒いので一枚羽織ったほうがいいですよ」
「すぐ隣だから大丈夫だよ」
「そんなこと言って。前も同じこと言って結局寒がってたじゃないですか」
「そうだったかなぁ?」
ジュラクは苦言など聞こえていないように首を回した。
サイは「待っててください」というと椅子の背に掛けられていた薄手のカーディガンを手に取り戻ってきた。
「さ、羽織ってください」
「はいはい」
背中を押されながらジュラクは事務所を出た。
ペンキも所々剥がれ落ち、いくつかの錆びが目立つ階段をおりながらジュラクは外の風を吸い込んだ。
サイの言った通り、少し肌寒いかもしれない。
正午に似合わぬ曇天が太陽を遮っているからなのか、風が冷たく感じた。
とはいえ、すぐ隣にある小さな喫茶店にはあっという間に着く。
重たい木製の扉が開き、二人の来客を知らせるベルの音にマスターが顔を上げた。
「いらっしゃい。先生、助手さん」
「どーも」
「こんにちは、マスター」
しっとり落ち着いた声と真っ白な髪が特徴的な老紳士がこのカフェ・クレーネのマスターだ。
店内は木とコーヒーの香りに満ちていて、静かに流れるジャズと共に気分を落ち着ける。
「マスター、いつもの席借りるよ」
「構いませんよ。ご注文はお決まりですか?」
「とりあえずブレンド二人分。食事はナポリタンのセットと……」
ジュラクがサイを見る。
「僕はたまごサンドセットで!」
「承知いたしました。掛けてお待ちください」
マスターがコーヒー豆を挽くのを横目に、二人は一番奥の席のテーブルに着いた。
依頼のことや最近のニュースについて話しているうちに、コーヒーと食事が届く。
「お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ」
淹れたてのコーヒーと昔ながらのナポリタン、トーストしたたまごのサンドイッチ。それらを前にして、二人はニッと笑う。
「素晴らしい一日になるとは思わんかね?」
「えぇ、もちろん」
手を合わせて静かに「いただきます」と言う。
空っぽの腹に人の手料理が入っていく温かさに夢見心地になりながらジュラクは呟く。
「ん~~。あとは心躍るような面白い事件が舞い込んできてくれたら、最高なんだけどねぇ」
「事件を面白がっちゃだめですよ!不謹慎です。あんまり大きな声で言わないでくださいよ?フォローが大変なんですから」
「ふぅむ」
ランチタイムがひと段落したのか。マスターがコーヒーのお替りに回ってくる。
「また助手さんに叱られているんですか、先生」
「ハハハ、いんやぁ日常になってきました」
「聞き流さないでくださいよ」
「いんやぁ」
へらり、とした笑みでサイの言葉を受け流しながら、ジュラクはコーヒーを啜った。
「職業柄、事件がないと閑古鳥が鳴くもんでねぇ」
「それは、そうですけど……。でも先生が興味ある事件ってオカルトっぽいやつでしょう?絶対穏やかじゃあありませんよ」
サイの言葉を止めるように、ジュラクが人差し指を上げた。
「そんなナンセンスな言葉で一括りにしないでおくれ。“アレ”は確かに超自然的存在と言えるかもしれないが、エンタメなんかじゃない。目に見えず、触れられないかもしれないが、確実にそこに在るんだよ」
「……」
真剣な表情の中に、どこかクリスマスの朝を楽しんでいるような期待が滲んでいる。
サイは真剣に言葉を理解しようと努めたが、首を傾げるばかりだ。
「僕にはまだ難しいです。……目に見えないなら見つけられないし、触れられないなら逮捕も出来ませんから」
「無理もない。人間という生き物は知能指数の割に愚かだ。どれだけ伝承を残しても、実際に身を持って体験するまでは真に理解することなどできないのだからね」
ジュラクは楽し気に笑った。サイはそれが不思議に思えて呟いた。
「先生は時々、まるで未知の体験をしてきたかのように仰いますよね。もしかして、先生には人には見えないものが見えているんですか?」
その質問にジュラクはただ静かに目を細めて微笑むばかりだった。
「……さて、どうだろう。ただ、未知なる事件が起こったとき、力になれるという自信が溢れてやまないのさ」
「ふぅん。……不思議な先生」
「誉め言葉として受け取っておこうかな」
「はい」
サイはたまごサンドイッチの最後の一口を頬張った。
いつも通りの一日が動き出す。
そんな二人から離れた席で、高校生たちが話に花を咲かせていた。
「ねぇ、そういえば聞いた?隣のクラスの子……」
「聞いた!行方不明でしょ。先輩は首を突っ込みすぎてヤクザに連れていかれたって言ってた」
「それは流石に違うんじゃない?……噂だけどあの子、“アレ”に乗っちゃったんだって……」
「“アレ”?」
わざとらしく顔を寄せ、声を潜めて言う。
「“終点のない電車”——」
モクシロク 序章 終